古戦場めぐり「戊辰戦争・旗巻峠の戦い(宮城県丸森町)」

古戦場めぐり「戊辰戦争旗巻峠の戦い宮城県丸森町)」

◎『戊辰戦争旗巻峠の戦い

旗巻峠の戦い」は戊辰戦争時、仙台藩相馬中村藩の境にある要所を巡って行われた、新政府軍と旧幕府軍との一連の戦いの総称です。戦いの結果、旗巻峠と駒ヶ嶺は、新政府の制圧するところとなり、仙台藩戊辰戦争において初めて領内に新政府軍の侵入を許しました。仙台藩は、数度に渡り奪還のための兵を送りますが、いずれも失敗に終わって、藩論は降伏へと傾くことになります。

元は、会津藩庄内藩の朝敵赦免を目的として結成された奥羽越列藩同盟ですが、長州藩士・世良修蔵の殺害によって新政府との対決に大きく舵をとり、北方政権の樹立を目指していました。相馬の中村城からは、陸前浜街道仙台藩へ向けて伸びており、街道は藩境で「駒ヶ嶺」(標高50m)を通過します。駒ヶ嶺は、かつて伊達政宗が相馬氏から奪った要害でしたが、今回は新政府を防ぐための重要防衛拠点となりました。中村城の北西には、標高260mの旗巻峠があり、旗巻峠からは中村城を眼下に一望できる上、峠を駆け下りれば一息に中村城を強襲できる位置にありました。仙台藩は、駒ヶ嶺と旗巻峠の2ヶ所を重要な拠点と定め、それぞれに兵を配置しました。駒ヶ嶺での戦闘は、砲撃から白兵戦に至るまでの激戦であり、新政府軍の死者は26名、怪我人は160名を数え、仙台藩の死者は32名、怪我人78名を数えました。新政府軍はとうとう仙台藩領に進出し、占領した駒ヶ嶺に兵力を集結させました。

旗巻山(標高260m)は、峠路をもって相馬領に通じ、中村を指顧する仙台藩の戦略要地とされています。明治戊辰の役で、浜街道の要衝・駒ヶ根が落城後、旗巻は仙台藩最後の拠点となり、参政鮎貝盛房の指揮下、仙台藩を主力に米沢・庄内・旧幕臣若干を加え、歩兵15小隊1200名、砲4門をもって守備し、8月20日山上より椎木〜大坪間を砲撃し西軍を撃退しましたが、9月10日夜、薩摩・長州・筑前・因州・相馬の新政府軍(西軍)は、山径を潜行して仙台藩の夜襲部隊と激突し、翌朝に至り新政府軍は隊を二分して、北方に迂回して山上に迫ります。仙台藩前島勘太夫は、槍をふるって敵3名を刺殺、11名を傷つけて戦死するなど、血戦しましたが敗れ、陣屋を焼いて退却しました。仙台藩の戦死46名、米沢庄内15名。時すでに仙台藩は降伏を決し、11日に兵を撤することになりました。

○「旗巻古戦場跡」(丸森町大内字青葉上149-13)

「旗巻古戦場」は明治元年(1868)9月、戊辰戦争仙台藩と新政府軍が戦った古戦場です。奥羽越列藩同盟のなかで一番の大藩である仙台藩ですが、いまいち戊辰戦争ではぱっとせず、長岡藩や庄内藩の方が目立つ戦いをしていました。旗巻古戦場は、仙台藩の少ない戊辰戦争の古戦場で、現在は古戦場公園として整備されています。説明板に、次の説明があります。

「旗巻の名については、前九年の役の頃、源頼義・義家父子の軍が安倍貞任を討つため、騎馬に旗をたてたまま峠を越そうとしたが、森林が深く通行を阻まれ旗を巻いて通ったという言い伝えによるもの。戊辰戦争の頃、旗巻は中村城を眼下に出来る場所として仙台藩の重要な戦略拠点であった。浜街道の駒ヶ嶺城が落城してからは、旗巻は仙台藩最後の拠点として残り、北進する西軍を阻止する体勢にあった。明治元年、細谷十太夫の率いる仙台衝撃隊(からす組)を含む仙台藩勢を石田正親、鮎貝太郎平が指揮し、更に庄内藩米沢藩の応援も得て砲4門を主軸に兵1200名で守備していた。山が峻険のため、西軍は正面からの攻撃を攻めあぐねていたが、9月10日夜奇襲で椎の木方面より攻め込み、一気に山上に迫る気勢を示した。西軍は鬼石あたりで激突したが、東軍により後方を遮断される危険を感じて旗巻陣は総崩れ陣屋を焼いて大内方面へ退却した。態勢をたてなおし戦おうとしたが9月11日仙台から降伏使節が青葉に着いて「これより追撃無之事」と協定が成立し、戦いは終わった。各藩は夫々兵を引き上げ、戊辰戦争中、仙台藩にとってこの地

が最後の戦場となった。」

【旗巻峠】

旗巻の名の由来は、天正13年(1589)伊達政宗の初陣となる相馬との合戦で、伊達勢に利が無く、この地で旗を巻き「さんさ時雨」を歌いつつ引き揚げたという故事によるものです。戊辰の頃、旗巻は相馬の中村城を眼下に望見できるところとして、仙台藩の重要な戦略拠点でした。周辺のおおまかな地図を見ると、「南北砲台跡」や「仙台藩士戦士塚」などがあるようです。

仙台藩士戦死塚】

ここは明治元年9月、戊辰の役における仙台藩と官軍との激戦地で、仙台藩士戦死塚、庄内藩士戦死塚が地元の人々により建てられました。仙台藩士戦死塚には、次の説明があります。

「この塚には戊辰戦争に際し、明治元年閏9月10日、旗巻峠付近の戦闘で戦死された仙台藩志の方々が葬られています。」とあり、次の説明板に、「数多くの供養碑が建てられてある事からこの地は古来供養と呼ばれている。猫碑には?右 さの??左 あふば?と刻銘されている。猫は方向感覚に秀れていることから、供養のほか道標をも兼ねたものと推察され、かつて、ここは佐野、青葉への追い分けの地であったことを物語っている。猫の道標は県内でも珍しいものである。」

【旗巻峠の古戦場碑】

明治元年 (1868) 9月、旗巻峠で再び熾烈な戦いがありました。相馬方面から攻める薩長土肥連合の新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟軍は、峠を扼 (やく) し、山頂に砲塁を築くなどの堅固な陣を備えて迎え討ったのですが、殷々 (いんいん) と砲声が鳴り響く血戦も、武器の性能が優る政府軍に有利な展開となり、同盟軍側の敗北となってついに降伏します。丸森町では、この戦いで奮戦した仙台藩士細谷十太夫が揮毫 (きごう) した「旗巻古戦場之碑」を建立しました。

【旗巻山と南北砲塁跡】

併せて「南北の砲塁跡」を整備し、史蹟の保存を計っています。北砲塁に向う遊歩道は古戦場碑の背後に延びて、400m先が旗巻山(標高259m)の山頂近くで、砲台が築かれたという名残は何もなく、ただ草叢に4等三角点が潜むだけです。東に展望が開いて、相馬市外と工業港、赤い煙突の火力発電所などが見え、その先は茫洋とした海が広がっています。赤松の大樹が繁る旗巻山頂は、それは趣のあるところでしたが、昨今の里山はどこも同じで、松くい虫の跳梁が留まることなく枯死した松が哀れです。遊歩道を行くと「旧道旗巻峠」の碑があり、昭和9年に廃道となっています。ここは、宮城県とお隣の福島県の境で、山の向こうは福島県相馬市になります。なおも遊歩道を南東に辿ると、やがて右手に溜池が現れ、くるり半周して沼から離れて檜の植林地の中をつづらに登ると、展望の良い尾根に着きます。眺めは雄大で、羽山 (標高275m) 、羽黒山 (標高346m) などの山並みが真近に迫り、相馬街道が俯瞰できます。この場所は、戊辰の戦いで政府軍に初めて砲弾を発射し、開戦の火蓋を切った南砲塁の跡地になります。