詩情が足りない……

 アニメの『サクラダリセット』を見ていると……端的に言って物足りなく思う。

 不満を感じる。

 これはただ単に、哲学さんの中で「アニメ化するならこうして欲しい、ああして欲しい」というハードルがあがっていたこともあるのだろうけれど、とりあえず見ていて面白かったな、と思う部分は小説の原作で面白いな、て思った部分ばかりでなかなかアニメならではの面白さを引き出せてないように感じる。

 ではなにが足りないか、と考えた結果、でた結論が表題の詩情である。

 哲学さんは、『サクラダリセット』は実にポエミーな物語である、と捉えていて、そこを表現して欲しかったように思う。

 いや、今のアニメ版もポエミーな感じではあるのだけれど、それは原作のポエミーに引き摺られてるだけで、アニメとしては決してポエミーとは言いがたいような――とかまあそんな風に思う。

 とはいえ、この詩情ってのは厄介だ。完全に主観だからである。いや、完全に、と言ったら語弊があるかもしれない。

 ただ、多分に「主観」が含まれる領域だ。その人のもつバックボーンに左右される。

 例えば、人によっては田園風景の写真には詩情を感じても、コンクリートの都会の写真には詩情を感じないと言う人が居るかも知れない。都会の写真にだって人間が行き交うのだから詩情の溢れた絵ってのは撮れるはずだが、人によっては『田舎の風景じゃないと詩情は出ない。都会の写真のどこに詩情が出るんだ』と主張するかも知れない。

 あるいは、枯山水を見て詩情を感じる日本人もいれば、そうでない日本人もいるだろう。外国人の多くは枯山水なんか見てもなかなか詩情を感じることは難しいだろう。

 あるいは、廃墟の写真に詩情を感じれる人もいれば、ただ薄気味悪いだけ、て人もいるだろう。

 そんな感じで詩情ってのは多分に受け手の感受性に左右されるところがある。

 では果たして今哲学さんが見ているこの作品も、作品側に詩情が足りないのか、はたまた受けてである哲学さんの方が詩情を感じ取る感受性が足りないのか。果たしてどちらなのか。

 ニコニコ動画サクラダリセットのコメントを見たら主人公の過去で小学六年生と名乗るシーンで「俺と同い年か」「ぼくもぼくも」「あ、俺より四さい年上かー」てコメントが流れてきて「まじかよ、小学生がこのアニメ見てるのか」と哲学さん軽く戦慄したのだけれど、もしかしたら哲学さんには感じ取れてない何かを彼らは感じ取れてくれてるのかもしれない――とか思ったりした。

 果たして詩情が足りてないのかどちらなのか……ま、気にせず寝る。