【羊の瞞し】第6章 TRAGICな羊 ?

 翌日の夜、響は仕事帰りにピアノ専科の事務所に寄った。一晩熟考を重ねた結果、林田に面会を申し込んだのだ。ピアノ専科の仕事は今でも週に数件請けているが、最近は依頼も報告も事務員とのメールだけでやり取りしている為、事務所を伺うのも林田と会うのも数ヶ月振りだった。

 急に響は、毎晩のように事務所を訪れ、林田と二人で大型機器などを運んでいた頃の記憶が蘇った。ノスタルジーの悪戯だろうか、兄のように慕い、親しげに「アキさん」「響」と呼び合っていたこと、一緒に鰻を食べに行ったこと、オーバーホールをする為にダミー会社として「ピアノ専科」を設立したこと……などが、すべて美化された懐かしい記憶として、脳内を駆け巡った。

 その後、瞬く間に巨大組織へと成長したピアノ専科において、もう昔の「アキさん」は存在しない。人情味溢れる優しさや温かさが削除されたフォーマットに、冷酷でシビアな経営者が上書きされ、内外に恐れられている。もっとも、そうでないと務まらないのかもしれない。非合法で非道徳な職務を纏め上げるに当たり、いちいち感情に流されていては身も心も保たないだろう。

 林田は、従業員の懸命な努力や熱心な姿勢も評価の対象にはせず、常に結果だけを見て、結果だけで判断するのだ。たとえ、擁護すべき事情や避けようのない不運に見舞われても、林田は一切容赦しなかった。どんな理由であれ、結果が伴わないと烈火の如く叱り付けた反面、どれだけ不真面目に取り組もうが、求められた成果を上げると褒めるのだ。金払いも良く、成績を給与に反映させた。つまり、人によっては、やり甲斐のある職場とも言える。実に合理的だ。

「お忙しい中、時間を割いて頂き恐縮です」

 見るからに不機嫌そうな林田に、響は先ずそう話し掛けた。

「お前さ、今週何件下見に行った?」

 少し予想はしていたが、林田は響の要件を聞く前に別の話題を振ってきた。

「すみません、今週は興和の仕事がギッシリ入ってまして、一件しか伺えませんでした」

「一々理由なんて必要ない。一件とだけ答えればいい」

 林田は、一件しか行けなかったことよりも、回りくどい言い訳を最も嫌うのだ。

「申し訳ございません。今週は一件です」

「そうか。来週は何件行けそうだ?」

「最低三件、もし市内だけに限定して頂けますと、五件可能です」

「よし、じゃあ、市内の依頼は松本優先で回すようにしよう」

「ありがとうございます」

 ここで、ようやく林田の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

「それで、お前の用事って何だ?」

 響は、袴田から聞いた入札の話を詳細に説明した。そして、もしオーバーホールを行うなら、宗佑が300万円未満で請けてくれることも話した。

興和が390で入札するのは、間違いないのか?」

「袴田がそう言ったことには間違いありません。ただ、実際に入札に参加するのは社長です。決定権は袴田にはないので断定は出来ませんが、他に競合店がない限りは間違いないと思います」

「そうだな、そこまではお前には知りようがないな……スマン、愚問だった。それと、情報提供には感謝する。でもな、じゃ、やってみようかって気にはなれないな。ちょっと嫌な予感がする」

 攻撃的な戦略家の林田にしては、珍しくネガティヴな発言に聞こえた。林田の言う「嫌な予感」とは、何を意味するのだろうか?

「すみません、嫌な予感とはどういうことでしょうか?差支えなければ、教えて頂けますでしょうか?」

 しかし、林田は考え込むように腕を組んだまま動かない。

「ちょっと話変えるが、お前、ネットは見るか?」

「すみません、パソコンを持っていません」

「そうか、じゃあ仕方ないな。ネット上にな、巨大掲示板サイトってのがあって、そこにピアノ専科の悪口が結構書かれてるんだ」

「えっ?マジですか?」

「まぁ、悪口って言っても、本当のことだし、別にどうってことない。ネット民ってのはバカでな、こっちはネットを使わない人をターゲットにしてるのに、その啓蒙をネットでやっても全く効果ないってことに気付いてない。うちとしては、痛くも痒くもない」

 確かにその通りだ……と納得した。紙媒体を見て依頼する高齢者が、ネットで評判を検索することはあり得ない。つまり、ネットに何を書かれようが、被害者予備軍の耳には届かないのだ。ただ、将来的にインターネットがもっと普及し、身近なツールになると、色んな弊害が出てくる可能性も考えられる。痛くも痒くもないなんて言えるのも、今だけかもしれない。

「そんなことより、たまには真っ当な業務実績も必要かな?とは思っていたんだ。宣伝に使えるからな。たまたまネットの悪評を見た人に対しても、公的機関の仕事を請けてるという実績は疑念を払拭するのに利用出来る。悪くない話だとは思ってる……この事案、松本は上手くいくと思うのか?」

 林田は、響に首尾の予想を訊ねてきた。自分の直感に自信を持って突き進む普段の林田からは、このような対応はとても想像出来ない。響には、林田が何を危惧しているのか不思議に思えた。

「入札すれば、結果に関係なく興和との関係は険悪になると思います。落札出来る可能性は高いと思いますし、技術と利益に関しては、特に問題は見当たりません」

「そうだな……興和との関係なんて、どうでもいい。あそこは、沈みかけの船だよ。ただ、さっき言った気になるってのは、袴田が何故お前に軽々しく教えたのか?っことだ。何かの罠の気もするが、俺には目的が見えないんだ」

 それは、響も少し疑問に思っていたことだ。袴田は、響とピアノ専科の関係に薄々気付いている。そんな中で、響にわざわざデリケートな話を伝えたのは、何か戦略があってのことか、単なる馬鹿なのか……どちらかしか考えられない。

「もし、何かの罠だとすれば、おそらく私をクビにする口実かもしれません。興和は、調律台数も減ってますし、袴田自身、予定を組むのに四苦八苦しています。一人居なくなると、袴田にゆとりが出来ます。他の調律師は、嘱託も含め、袴田を崇拝し懐いていますが、私だけは違います。一人削るなら、袴田は私を選ぶでしょう」

 すると、林田はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「お前、成長したな。実は、俺もそうだと思ってたんだ。嫌な予感ってのは、お前がクビになるんじゃないか?ってことだ。でも、そこまで分かってるのにやりたいってことは、覚悟出来てるんだな?」

 流石は林田だ。響の事務的な説明を聞いただけで、そこまで理解したのだ。

「覚悟は出来ています。ただ、先程はクビにする口実と言いましたが、正確には、自主退社を促したいのだと思います」

「どういうことだ?」

「社長は、誰がリークしたのか躍起になって調べるでしょう。もちろん、バレたらクビは間違いありません。でも、その時は、袴田が部下に軽々しく話したことも知られます。それはそれで大問題になります。なので、袴田は口を割らないと思います。まぁ、何かと嫌がらせはされるでしょうけど、それぐらい何ともありませんし、その気になればこちらから彼を脅すことも可能です。それに、クビになっても何とも思いません。むしろ、袴田の方がクビを恐れる筈です」

 そこまで話すと、林田は感心したような目付き変わり、少し和やかになった口調になった。

「OK、それなら入札しよう。うちも、県は勿論、県内全ての市町村に指定業者登録ぐらいはやってるさ。お前、真面目な調律師やってるのは勿体無いな。クビになっても、うちで拾うぜ、お前さえ良ければな。やし、じゃあ後は任せろ。落札してやるよ」

「ありがとうございます。色々と準備しておきます」

 こうして、ピアノ専科によるオーバーホールへの入札は決定した。しかし、それは響にとって、思いもよらない苦しみの始まりだったのだ。

 県立湊南商業高校所有のピアノ、YAMAKIフルコンサートグランドピアノのオーバーホールは、三社による入札の末、ピアノ専科が落札した。

 興和楽器は、想定外の入札業者の参入に驚いたものの、どうせ上限予算を知らないくせにと、ピアノ専科を舐めて掛かっていたようだ。と言うのも、公的機関のフルコンのオーバーホールは、500万円以上が相場と言われている。メーカーのバックアップもなく、大規模な工場がないピアノ専科では、それ以下で受注することは無理だろうと踏んでいた。なので、興和楽器は自信を持って予定額の390万円で入札したのだが、ピアノ専科の入札額はそれを僅かに下回ったのだ。

 その日の夕方、響の携帯に袴田からメールが届いた。

「今日の閉店後、本店の会議室に必ず来ること。大事な話がある」

 簡潔な短文とは言え、有無を言わせぬ厳しい命令口調の文面から、とても穏やかな心境でないことが否応にも伝わってくる。そのメールを一読し、ピアノ専科が落札したことを響は確信した。

 袴田の用件は、大方の予想がつく。興和楽器としては、数十万の利益が吹っ飛んだだけの話ではない。長年の信頼関係から得た情報を横取りされ、メーカーの好意にも泥を塗ってしまった。何より、袴田の、そして、興和楽器のプライドが許さないだろう。

 閉店時間の少し前に、響は本店に到着した。この後に迎える袴田との面会に対し、険悪な空気に成るだろうと予想しつつも、不思議と緊張も畏怖も感じない。至って平常心だ。

 どうやら社会人は、会社への執着――即ち、勤務を継続したい意欲、または継続せざるを得ない動機――がなくなると、忠誠心を失い、クビも恐れなくなるのだ。すると、上司からの説教や恫喝も何とも思わなくなる。逆に言えば、心と裏腹の会社への忠誠や嫌な上司への服従も、突き詰めていくと、結局は職を失いたくないという防衛本能が生んだ“我慢”に過ぎない。

 そういった意味では、もう響には興和楽器に対して我慢する理由がない。今、この場でクビになっても構わないと思ってる響にとって、袴田がどの様な態度で接してこようと、どうでもいいことなのだ。もちろん、こちらからわざわざ喧嘩腰の態度を取るつもりはない。社内での関係とは別に、一般的な社会人として、目上の人に対する常識的な態度は尊重すべだとは思っていた。

 指定された会議室に入ると、既に袴田が待ち構えていた。腕を組み、しかめっ面で睨み付ける袴田が、響にはむしろ滑稽に映った。

 入社した頃の響が憧れ、尊敬し、威厳に満ち溢れていたように映った袴田も、この6年の間にいつしか痩せ細り、白髪も目立ち、一回り小さくなった気がした。颯爽としたエレガントな身のこなしは、セコセコと動き回る貧乏臭い印象に変わり、糧にすべき貴重な体験談と思えた説法も、最近では自慢と嫌味と悪口にしか聞こえなくなった。おそらく、袴田だけではなく、響も変わったのだろう。成長とは限らないにせよ。

「入札の結果は聞いたか?」

 いきなり袴田は、本題について話し掛けてきた。まだ響は着席もしていないし、儀礼的であれ、挨拶ぐらいは交わすべきとも思ったが、「知りません」と答えながら適当な椅子に腰掛けた。

「うちは予定通り390万で入札したが、ピアノ専科が385万円で落札した」

 袴田は無表情を装っているつもりだろうが、響には怒りや憎しみの欠片が垣間見える。しかし、落札出来なかったとは言え、響を陥れたかったはずの袴田にしてみれば、計算通りの展開の筈だ。つまりは、会社に従順な人間という演技を、生涯続けないといけないのだろう。

「そうなんですか」

 素っ気なく、響は返答しておいた。もちろん、そうなると予想していたし、そうなることを望んでいた。響にとっても、袴田と同じく、計算通りの展開なのだ。

「競合に敗れたが、疑問点が幾つかある。一つは、何故ピアノ専科がオーバーホールの入札があることを知っていたのか?だ。松本はどう思う?」

 お前が教えたんだろ?とストレートに聞かないところが、いかにも袴田らしい。いっそのこと、「私が教えました」と言おうかとも思ったが、響は白々しい演技に付き合うことにした。

「分かりません。でも、県は情報を開示する義務がある筈なので、ピアノ専科が知っていても不思議に思いませんが?」

「どういうことだ?」

「県の予算で行う事業ですから、指定業者には連絡があるはずだと思っていました」

「法的にはそうかも知らんが、信頼関係と慣例というものも無視出来ないはずだ。実際、急だったこともあり、県はこの件の情報は開示していない」

「なるほど……そうなんですね。つまり、本来なら内緒でコッソリ形だけの入札をして、事実上の談合と癒着で業者を決めるはずだったってことでしょうか?」

「おい、言葉に気を付けろ。これはな、どこでもやってることだ。今問題にしてるのは、何故ピアノ専科が知っていたのか?ってことだ。それに、予算もピンポイントで合わせてきた」

「オーバーホールなんて、どこでやっても似たような金額になるのではないですか?」

 響は、金額の話も袴田から説明されていたのだが、そんなことは忘れているだろうと踏んでいた。なので、無知を装い惚けてみた。

「おいおい、湊南商業高校でお前には言っただろう?普通は、公的機関のフルコンのオーバーホールだと500万を切ることはない」

「あぁ……そうでしたね、すみません、忘れていました」

 やはり、袴田は抜かりがない。自分が行った説明は、しっかりと覚えているようだ。

「でも、今回は予算が400万しか出ないって分かってたから、メーカーに頼み込んで安く請けて貰うことになっていたんだ。つまり、予算の上限額を知らない業者は、入札に参加は出来たとしても、普通に見積もれば落札は出来ない筈だ」

「400万までって数字も、興和楽器しか知らない情報だったのですか?」

「言ったろ?県は、何も情報開示していない。問合せがあれば答えるだろうが、広報誌にも載せていない案件だ。知っていたのは、社長と営業部長、俺、お前だけだ」

 いよいよ核心を突いていたようだ。疑いではなく、確定事項として追求し、自白を求めているのだろうか。しかし、取るに足らない強引で稚拙な攻め方だ。それぐらいなら、幾らでも言い返す自信があった。

「そうでしょうか?社長と営業部長は他言してないとしても、少なくとも梶山楽器の何人かは知ってますよね。あと、学校の教職員も知ってる方はいるでしょうし、県の職員もそうですね。誰かがピアノ専科と繋がりがあったのかもしれないし、特定は難しいのではないでしょうか?」

「そうだな。お前じゃないなら、それも有り得るな」

「誰にも話していないことの証明は出来ません。袴田さんも、私以外には誰にも話していないって証明出来ないですよね?社長と営業部長も同じです。でも、袴田さんが少なくとも一人の部下に話したってことは証明出来ますよ。仮に私がリークしたとすると、では何故私が知っていたのか?ってことも問題になってきませんか?」

「お前、俺を脅してるつもりか?」

「いいえ。でも、私にリークさせたかったのではないでしょうか?」

 すると、袴田の表情は豹変した。憎々しげな目で響を睨み付け、もうそれを隠そうともしない。

「なかなか根性座ってるな。よし、本音で話し合おうか。お前が林田と交流があることぐらい、耳に入ってる」

「それで、私が他店に情報を売り、興和の落札の邪魔をさせ、クビにする。そして、私の担当顧客を奪うって計画ですか?」

 ストレートに予想をぶつけると、思いの外、袴田は笑い出した。演技でも皮肉でもなく、心底楽し気な笑いだ。

「ちょっと待てよ、お前、そんな風に考えてたのか?笑わせるなって。あのさ、確かに俺の客も減ってるけど、お前の客を奪うほど困ってないさ。それに、俺にとっては技術部全体での実施台数の方が重要なんだ。お前の客を俺がやっても絶対数は変わらないだろ?そんな無意味なことするわけねぇよ。だから、学校調律とか入札で取れる仕事を自力で増やしてきたし、客を取るなら先ずは嘱託からじゃないと意味がない。実際、そうしてるしな」

 袴田の言い分は説得力があった。どうやら、響の予想は全くの的外れだったようだ……では、何故リークさせたのだろう?響は、少し焦り始めていた。袴田を少し見縊っていたようだ。人生経験も調律師キャリアも到底敵わない袴田のことを、無意識に見下していた傲慢な自分を恥じ、後悔した。これで、彼の狙いが皆目見当も付かない。上手く対処出来るか……一気に自信が無くなった。

「俺が知りたいのはな、ピアノ専科でどうやってオーバーホールするつもりなのか?ってことだ」

 やはり、袴田は自分と宗佑の関係を知っているのだ……直感的にそう思った。しかし、その後の考えが読めない。

「ピアノ専科は、普通にオーバーホールの仕事を取ってますからね。工房もあるし、興和楽器とは違って、外注にお願いしなくても自力で出来るのではないでしょうか?」

 響は、その回答に軽い皮肉を込めたつもりだ。興和はオーバーホールを受注しても、作業は横流しするしかない。自力で修理に対応出来る会社が増えており、興和楽器の時代遅れのスタイルでは、どの道取り残される運命なのだ。

「まぁ、うちも自力で出来るように変えていかないとダメなんだろうな」

 意外なことに、袴田は響の皮肉にも理解を示した。古い特約店のスタイルに、袴田自身は固執していないのかもしれない。

「ただ、そうじゃなくて、ピアノ専科が自力で修理出来るとしても、部品はどうやって仕入れるつもりなのか?って話」

「どういうことですか?普通にYAMAKIに注文すれば買えますよね?」

 すると、袴田は薄っすらと勝ち誇ったような嘲笑を浮かべた。

「何言ってんだ?フルコンってピアノはな、メーカーの総力を注いで威信を懸けて作られてるんだぜ。全てのフルコンはメーカーに追跡管理されてるからな、下手な改造や修復をされないように、純正パーツも簡単に売ってくれないぞ。整番と所有者情報を添付して、正規ルートで販売された物と確認が取れた上で、担当特約店を通してようやく購入出来るんだ。もちろん、事後報告も必須だ。ピアノ専科では無理だと思うぜ」

 この想定外の話に、響は愕然とした。やはり、嵌められたのだ。そして、ようやく袴田の狙いが見えた気がした。宗佑が下請けで修理することを、間違いなく知っているのだ。近年再活動を始めた宗佑の噂を何処かで耳にし、好ましく思っていないのだろう。危機感なのか嫉妬なのか、若しくは過去の憎悪なのか……真意は分からないが、袴田の狙いはピアノ専科でも響でもない。おそらく、宗佑を破滅させたいのだ。

 響は、何も言い返せずに黙するしかなかった。自分の無知に対する苛立ち、老獪な袴田の策略への怒り、そして、現実的にどのように作業を進めるべきという焦燥が入り混じり、闇の中に放り投げられた気分だ。響では、とても敵わない相手だと思い知らされた。全て彼の手中で、彼の予定通りの展開に踊らされていたのだ。

「因みに、メンテ以外の入札の売り上げは営業の成績になるんだよな。俺の評価には関係ないんだ。正直なところ、ピアノ専科が落としてくれて個人的にはホッとしてる。うちが落としたら、成績は営業なのに、メーカーとのやり取りはこっちに丸投げされるだろうから、何かと面倒だしな」

 袴田を出し抜いてやったという達成感は、最早コテンパンに打ち砕かれたと言えよう。袴田は、入札なんてどうでも良かったのだ。ただ、その機を利用して、罠を仕掛けたに過ぎない。部品の供給が不可能なことを知っており、どうもがき苦しむか見届けたいのだろう。見事に、彼のシナリオ通りの罠にはってしまった。

「そうか、お前がリークしたんじゃないんだな。まぁ、残念ながら、興和楽器は落札出来なかったが、ピアノ専科さんがキッチリ直してくれるでしょ」

 皮肉混じりの笑みを浮かべながら、余裕の表情で袴田は言った。そう、この“余裕”こそ、袴田の凄さかもしれない。余裕の裏には、自信がある。袴田の喜怒哀楽の全ては、その自信から出た演技に過ぎず、余裕を持って相手を観察しているのだ。

YAMAKIには、俺が報告しないといけないんだぜ。やってらんないよ。入札に負けただけじゃなく、相手が特約店じゃないからな、YAMAKIも良い気はしないだろう。まぁ、何処が直そうが来年度の定期調律はうちがやるから、お手並み拝見だな」

 無言を貫く響に、袴田は最後の言葉を投げ捨てた。おそらく、製番は把握しているだろうから、メーカーに伝え、パーツ供給にストップを掛けるつもりだろう。

 公的機関の入札事業は、確定後のキャンセルは不可能だ。もししようものなら、信用の低下に繋がるだけでなく、違約金や指定業者取消などのペナルティは避けられないだろう。新学期が始まると、否応でもオーバーホールに着工し、7月上旬に納めないといけないのだ。部品をどうするか……タイトな予定の中で、初歩的な段階で止まっているわけにはいかない。