【追悼文】松野茂先生とのいくつかの思い出

去る4月3日(月)、国立音楽大学名誉教授でコントラバス奏者の松野茂先生が逝去されました。享年81歳でした。

松野先生は1936年3月8日に生まれ、東京都立青山高等学校、東洋音楽短期大学、国立音楽大学音楽学部器楽科を卒業されました。

青山高校在学中に日劇ミュージックホールなどでギター奏者として活動し、遠藤周作と共演した経験もあった松野先生は、国立音楽大学在学中に東京交響楽団コントラバス奏者として在籍されました。

また、国立音楽大学専攻科卒業後の1961年にはマンハッタン音楽大学に留学し、スプリングフィールド交響楽団にも在籍され、帰国後は国立音楽大学昭和音楽大学で教鞭をとり、1979年に国立音楽大学教授となり、後進の育成に尽力されました。

ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任したばかりの小澤征爾氏と会い、「松野さん、日本に帰ったら一緒に仕事をしましょう」と言われたのも、松野先生が滞米中の出来事でした。同学年である小澤氏とのやり取りに言及される松野先生は「あのとき、僕はもう東響でコントラバスを弾いていたけど、あっちはまだ駆け出しでニューヨーク・フィルの副指揮者になるかならないかというところ。だから僕の方が「松野さん」だよ。でも、日本に帰ってみると今度は彼の方が偉くなっちゃって、今度は僕が「小澤さん」と言うようになったよ」と愉快に語られるのが常でした。

ところで、私が松野先生とご一緒するようになったのは、東京都立青山高等学校に入学し、青山フィルハーモニー管弦楽団に入部した1992年のことでした。

私が1992年9月に青フィルの指揮者に選ばれた際、最初に行われたのが松野先生のお宅にご挨拶に行くことで、指揮者、部長、コンサートミストレスの先輩とともに松野先生のご自宅に伺い、居間に飾られている日劇ミュージックホールでの演奏の様子や遠藤周作と肩を並べた姿を収めた写真を興味深く眺めたことを今でも鮮やかに覚えております。

その後も様々なご指導を頂戴しましたが、とりわけ私が今も克明に記憶しているのは、1993年3月の練習に松野先生をお招きしたときのことでした。

練習の冒頭で私がブラームスハンガリー舞曲第1番と第6番を振った後、松野先生が「ちょっと貸してごらん」と指揮台に立たれて、「じゃあ、いいかな?」と指揮をされると、演奏する顔触れは全く変わらないにもかかわらず、出てくる音の響きや厚みはわずか1分前とは全く別のものになっており、あたかも違う団体の演奏であるかのようでした。

指揮台の横でこの変化を直接に体験した私はまず驚き、次に「どうしてこうも違うことになったのだろうか」と考えを巡らせていました。

そして、2曲を通し終わった頃、私は「演奏者の指揮者に対する信頼感の違い」が「演奏の違い」に繋がったのだろうという結論に至りました。

すなわち、「「大丈夫かな、何か間違った指示を出したりしないだろうか?」と演奏者が不安を抱く場合と、「大丈夫、棒の通りに演奏すれば間違いない」と思われる場合とでは演奏も自ずと異なり、しかも今の時点で自分はどう考えても信頼される指揮者ではないから、松野先生のような「この人なら大丈夫だ」と信頼される存在にならなければならない」というのが、私の得た答えだったのです。

この時の私の理解は、もしかしたら間違っていたのかもしれません。それでも、「同じ演奏者なのに全く別な音楽になる」という驚きがなければ、私が指揮者としてのあり方、あるいは「指揮法」ならぬ「指揮者法」に対して十分な注意を払うことがなかったかも知れないのですから、松野先生の指揮棒を通した指導から受けたご恩は到底言葉では表現できないものであることだけは確かです。

1995年に私が青山高校を卒業した後も松野先生にはお世話になり、1997年8月の青フィルの合宿の際には「卒業生は自分の満足のために行動してはだめだ。常に何が在校生にとって最善かを考えねばならない」という貴重なお言葉をたまわりました。この松野先生のお言葉は、私が常々考えていたことと重なっただけでなく、青フィルの卒業生のあるべき姿を端的に表現しているという意味で、今日に至るまで私にとって大きな価値を持つ、重要な行動の規範となっています。

このように、これまで25年にわたって松野先生の謦咳に接することができたありがたさに改めて感謝するとともに、松野先生のご冥福をお祈り申し上げます。